御家人斬九郎最終回に関するメモ
御家人斬九郎シリーズ最終回を観て、それまでの御家人斬九郎とはかなり違う、残念な印象を受けました。そこで、素人が何処まで書くべきか色々悩みましたが、一人の蔦吉ファンとして感じたことや、気になったことを、批判的なことも含めて書いておくことにしました。 (これらを「旧解釈に基づくメモ」と称します。)
その後、「何故こんなストーリーなんだ~」、と考えていたら突然 “正解” が浮かんできました。それを短くまとめて、「《蔦吉ファン》による残念でない新解釈 = 斬九郎は死んでない」というタイトルでこのページ本文最下部に追加しました。この解釈では、この最終回が可成り“ぬるい”物語になってしまいますので、悲劇的な話が好きな方は読まないことをお勧めします。(2021年7月16日)
このページにはネタバレもありますし、読んで気分を害する方もいらっしゃるかも知れませんので、読まれる方はご注意願います。
< 目 次 >
旧解釈に基づくメモ
- エピローグを除く物語本体の印象
- 斬九郎は死んだのか(《蔦吉ファン》の解釈)
- 蔦吉はどうなった(《蔦吉ファン》の解釈、というより妄想)
- エピローグについて
- バックグラウンドミュージックについて
- 残九郎じゃなくて残十郎か
- 渡辺謙さんが最終回の監督をする事になった経緯
新解釈
エピローグを除く物語本体の印象
この最終回を繰り返し観ては涙し、観ては泣きする夫のことを書いた新聞への投書記事を見た記憶があります。視聴者はそれぞれ独自の感性で観ているとはいえ、それ程人を感動させる事が出来るということは “名作” なのかも知れません。でも、単発時代劇ならいざ知らず、御家人斬九郎シリーズの一本としてみると、どう考えてもこの物語本体の筋書きと結末は理解できません。
物語の始まりから少しの間は「時代劇御家人斬九郎」のテイストが残っているように思います。しかし、全体を通してみると、重苦しく、暗く、メソメソして、と三拍子揃った救いのない物語で、とても「明るい眠狂四郎」の御家人斬九郎とは思えません。素人考えではありますが、何か斬九郎を破滅させ殺害することに汲々として、物語を矮小化してしまっているような印象さえ受けてしまいました。どうせなら “名作” なんて言われることを断固拒否して、斬九郎の活躍によって悪事が不首尾に終わり、ひいては幕府滅亡に繋がっちゃったぜいみたいな、どう考えても嘘っぱちだけど面白いといった話にすれば良かったのに...、半分冗談ですけど...。ま、それよりは第3シリーズの第10話~11話のように、苦悩の後に夢があるような、そんな終わり方にして欲しかったなぁと思うのであります。残念!!
斬九郎は死んだのか(《蔦吉ファン》の解釈)
死にました...、渡辺謙さんが監督した物語の最後で。しかし、企画担当の能村庸一氏の意見によって追加されたエピローグ(下記)で生き返りました。能村さんは、「シリアスな展開になっても、最後はいつもの調子に戻る」という斬九郎シリーズのテイストを崩したくなかったのだそうです(第7回京都ヒストリカ国際映画祭 【リポート】「御家人斬九郎」トークショー)。
一旦死んだことは物語の筋や最後の戦いの状況からして議論の余地が無いと思いますが、加えて、上記トークショーにおける能村氏の二つの証言(?)を紹介しておきます。曰く、「謙さんは(略)斬九郎の死をもってシリーズを終わらせたかったのだと思います」。また、「放映後暫く経って渡辺謙さんに『斬九郎は生きているって事で良いんですよね』と聞いたら謙さんから『あなたがそうしろと言ったんじゃないですか』と返って来ました」。
とはいえ、実は死んでいなかったとか、死んだけどエピローグは死ぬ直前の斬九郎が見た夢だったとか、見る側が想像して良いのではないかといった意見もあります(例えば:上記トークショーの犬童一心さんの意見)。 (以下、2023年7月16日追記: ただ、人力車がない時代の斬九郎が人力車の夢を見るのは可成り無理があると思います。 国交省横浜国道事務所のホームページによれば、人力車がわが国に始めて登場したのは明治3年だそうです。)
ついでに書いておきますと、《蔦吉ファン》の解釈通り死んだのであれば、原作者に断りもなく主人公を殺して良いのかという疑問がどうしても消えません(原作者の柴田錬三郎はテレビ放映の遙か前、1978年に亡くなっています)。
蔦吉はどうなった(《蔦吉ファン》の解釈、というより妄想)
斬九郎の死を目の当たりにして尋常でない表情をしていました。かつてバリー・マニローが歌った「コパカバーナ」の踊り子・ローラ(下記注)のように正気を失ってしまったのかもしれません。《蔦吉ファン》としては蔦吉へのこんな仕打ちは「勘弁ならねぇ」のであります。
注:「コパカバーナ」は1970年代後半にヒットしたディスコミュージックで、内容はおおむね次の通り: 30年前にコパカバーナ(というナイトクラブ)の踊り子・ローラが目の前で恋人を殺され正気を失った。今そこはディスコに変わっていて彼女がいるべき所でもないが、今でも彼女は30年前の衣装と色あせた羽根の髪飾りを着けてそこに座っている。恋なんかするんじゃないよ。
この曲をYouTubeで聴いてみたい方はここ “コパカバーナ【訳詞付】 - バリー・マニロウ” なんかどうでしょう(以前リンクしていた所の方が翻訳が良かったですが、無くなってしまいました)。
でも、能村さんの意見に基づいて追加されたエピローグでは全く正気で、幸せそうに見えます。
エピローグについて
上記のように、物語本体は御家人斬九郎シリーズと趣が異なる作りになっているような印象を受けました。当初、物語の最後に若干無理筋のエピローグを追加して、ギリギリ御家人斬九郎シリーズに引きずり戻したのではないかと考えました。色々調べたところ、企画担当の能村庸一氏の話が見つかりました(上記のトークショー)。それによれば、実際にもそのような意図があった様で、当たらずといえども遠からずかと思いました。
バックグラウンドミュージックについて
この最終回では、御家人斬九郎の音楽を担当してきた佐藤勝氏の作でない音楽が二つ使われています。BSフジでの再放送では佐藤氏(多分)の曲に変わっていますが、時代劇チャンネルでは(多分初回放送と同じく)下記の二つが流れてきます。
(1) 物語の後半、斬九郎が最後の戦いに向かうときに「ほーほーひーひー」みたいな歌詞(?)のアジア的な印象の曲が流れました。One Little Creature の You've Gotta Learn(意味は「汝学ぶべし」ですが、「お前勉強した方が良くなくね」みたいな言い方で言った感じでしょうか...)という曲でした。斬九郎が屋敷を出て少し進んだときと、飲み屋東八の前を通り過ぎたときの計2回 "You've gotta learn" と言う声が聞こえました。斬九郎は何か学んだんでしょうか...。
(2) エピローグの前の最後の最後に、クイーンの The show must go on が流れました。能村さんは気に入らなかったようですが、《蔦吉ファン》としては、歌詞を無視してインストルメンタル的に聞くと、この場面(若村麻由美さんの演技)には良く合っているような印象を受けました(歌自体、素晴らしい)。
銃声を聞 いて狂わんばかりの表情で雪の中を走る蔦吉が、斬九郎がいる天正寺の閉ざされた門に着きました。そのあたりで流れた歌詞は「I guess I'm learning, I must be warmer now.(僕はいま学んでいるような気がする、答えに近づいているに違いない)」でした。結局斬九郎は何か学ぶ前に死んじゃったみたいです(エピローグは除きます)。残念!
それはともかく、歌詞の内容は解釈が難しいんですが、一言で言うと「困難に直面しているけど負けないぞ」といった主旨かと思います。余命幾ばくも無い病状で仲間に心配されながら、残された力を振り絞って歌い録音したボーカルのフレディー・マーキュリーや、命に関わる病を経験した渡辺謙さんにはぴったりかと思いますが、仇討ちするために命をかける斬九郎に合っているのかは難しいところです。仇討ちと言っても、長野主膳(松重豊)や内藤兼友(山崎努)といった本当の仇には目もくれず、下っ端侍たちとチャンバラをして果てますし...、しかもピストルで撃たれて...。ショーを続ける気は無かったような気もしますし...。一体この「最後の死闘」の意味は何だったんでしょうか...
...この歌は “この最終回の斬九郎” より蔦吉に相応しいのかも知れません。
参考:オンラインのケンブリッジ英語辞典によれば、"The show must go on" は、困難に直面していても今やっていることを続けるように励まし勧める為に使われる言葉(諺:ことわざ)だそうです。
参考:名古屋大大学院教授の塩村耕先生によれば、江戸時代には銃で人を射殺することは相手の尊厳を傷つけると考えられていた(武士道に反する)らしく、人を殺傷する道具として銃が用いられた形跡がほとんどないとのこと。(2019年6月30日東京新聞「江戸を読む」から: 記事中に銃殺事件が1件だけ紹介されている)
残九郎じゃなくて残十郎か
これは《蔦吉ファン》が「あれれ??」と思ったことで、重箱の隅をほじくるようなことですが、面白いので書いておきます。
その前に...、原作もテレビ版も斬九郎は「4男5女の末子」で、男子のうち、上の二人は父喜左衛門の剣術の指南で致命傷を受け、亡くなりました。三男・新八郎は信濃高遠藩の祐筆へ養子に行きました。 但し、テレビ版では新八郎は麻佐女とは別の女に生ませた子になっています。
この最終回に斬九郎の「直ぐ上の兄」として出てきた西垣与市兵衛(三浦浩一)は原作にないキャラクターで、斬九郎を無き者にするための仕掛けとして創作されたものと思われます。結果斬九郎の兄が3名から4名に増えてしまい、姉が5名いるので、斬九郎は10人兄弟の末弟になります。てことは残九郎(斬九郎)じゃなくて残十郎(斬十郎)ですかね。それとも姉の一人を兄に差し替えたのかも...。多分後者でしょうね。いずれにしても重箱の隅が気になる《蔦吉ファン》としてはちょっと引っかかる点です。
与太話ですが、御家人斬九郎シリーズは第5シリーズの第9話で終わりにして、この第10話は全く別の時代劇「御家人斬十郎」みたいな題で発表した方が良かったのかも...。ついでに蔦吉は鳥吉にするなんてのはどうでしょうか(焼き鳥屋さんみたいか)。念のためネットを見たら、「何々斬十郎」ってのが複数出てきました。与太話なので構いませんけど、ちょっと残念。
渡辺謙さんが最終回の監督をする事になった経緯
参考までにもう一つ。渡辺謙さんが最終回の監督をする事になった経緯は能村庸一・春日太一共著の「時代劇の作り方 プロデューサー能村庸一の場合」の128ページに書かれています。曰く、スタッフの間から(能力もあるので)「最終回の演出は謙さんで」と盛り上がり、みんなで口説いたら、ちょっと迷った後、男として一生に一度だけみたいなことで受けてくれた。
謙さんの気迫、熱意、能力を目の当たりにしていたスタッフの、謙さんへの信頼は大変厚かったようです。
《蔦吉ファン》による残念でない新解釈(というより妄想)= 斬九郎は死んでない ちゃぶ台返しだ~
渡辺謙さん監督で作られた本編と能村庸一さんの意見で追加されたエピローグの間に次のような話(というより《蔦吉ファン》の妄想)が隠れていました:
実は、最終回(第5シリーズ第10話)の本編は、或る夜斬九郎が見た長~い悪夢でした。冷や汗でびっしょりになって目覚めた斬九郎は、侍のばかばかしさに気づくと共に、自分にとって蔦吉が如何に大切な存在か改めて痛感し、意を決して蔦吉に告白しました。第5シリーズ第9話のエピローグ以降斬九郎を諦めかけていた蔦吉は、話を聞いてこれは本気だと理解し、やっと二人は結ばれました。良かった、良かった。
そして、時代が明治に変わり、斬九郎は人力車夫の職を見つけて、エピローグに流れた様な状況になりました。能村庸一さんが追加したエピローグが現実の斬九郎と蔦吉(と麻佐女)の生活だということです。
その後、長い長い年月が過ぎ、斬九郎・蔦吉夫婦の5代後の蔦吉にそっくりな子孫が、令和の新宿で飲み屋の女将をしています。ある日その飲み屋で開店前の支度をしていると、江戸時代からタイムスリップした浪人と岡っ引きが警官に追われて逃げ込んできました。さあ彼らはどうなるんでしょうか・・・・・・みたいなドラマ、誰か作ってくれませんかね。飲み屋の女将は若村麻由美さんが良いと思うんですが。
補記:
今考えてみると、能村氏が最後にエピローグを追加した意図は明らかに斬九郎の命を救うことであり、そのためには本編の無効化が必須のことだったのではないかと勝手に想像しています。既に完成した本編を作り直すわけにも行かず、本編の内容では斬九郎が生き続ける可能性はゼロだし・・・・・・、ということで、「悪夢」にしてしまおうと考えたというのが最もありそうだという事です。どうでしょうかね?